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福田財務事務次官によるテレビ朝日記者に対するセクハラ行為について

2018-04-19

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 今回、女性記者が財務事務次官のセクハラ被害にあった件では、(1)取材源の秘匿に反しないか(2)事実を報道しなかったテレ朝の判断は適切だったのか(3)女性記者が他メディア(週刊新潮)へ情報を提供したことは許されるのか――などが、ジャーナリズムのあり方として問題となるように見えます。朝日新聞社会部メディア班のキャップなどもつとめた経験から、これらの論点を考えてみたいと思います。

 まず、取材源の秘匿は国民の知る権利に奉仕するジャーナリストに認められた憲法上の権利ですが、同時に、倫理的な義務でもあります。このため、今回セクハラ被害にあった女性記者が週刊新潮の取材に応じたこと自体がこの義務の違反にあたる可能性があると一部で指摘されてます。しかし、これは正しい見方とはいえないでしょう。
 義務と言っても、100%絶対ではありません。そもそも取材源の秘匿が厳しく求められるのは、この保証がないと、取材相手が真実を語らなくなり、真相の究明によって国民の知る権利に応えることができなくなる恐れがあるからです。例えば取材相手が公表に真摯に同意した場合には、このような恐れはなくなくなるので、義務は当然解除されます。
 また、取材源の秘匿は取材する側と取材される側の信頼関係を基礎においています。従って、取材される側がこの信頼関係を著しく毀損するような行為に出た場合、例えば取材の過程で記者を傷つけたり、脅かしたりするなどの犯罪行為を行ったり、不法行為によって記者の人権を著しく侵害したりした場合は、問題とならないはずです。実質的に考えても、例えば、オフレコを条件に取材していた女性記者が取材相手から強姦や強制わいせつの被害にあった場合、取材源の秘匿があるから告訴・告発できないという議論はばかげています。
 今回のケースでは、公開されたやりとりが事実であるとすれば、取材相手の事務次官は記者の取材に真摯に答えようとせず、記者が「やめてください」と何度も求めているにもかかわらず、執拗にセクハラ発言を繰り返しています。当然、記者との間の信頼関係など存在しておらず、取材源の秘匿の前提条件を欠いています。

 次に、女性記者は上司に事実を報告し、「セクハラの事実を報じるべきではないか」と迫ったのに対して、上司が(財務省への抗議も含め)何ら対応しなかった点です。これは大きな問題です。
 テレビ朝日は「放送すると本人(被害にあった記者)が特定され、二次被害が心配されること」を理由にあげていますが、本当でしょうか。この上司や組織としてのテレビ朝日が女性記者に対するセクハラ被害を深刻に考えず、とりあわなかったという可能性はないのでしょうか。もしそうだとすれば、この上司やテレビ朝日の感覚は財務省と同じレベルだったということになります。
 テレビ朝日は報道番組やワイドショーで繰り返し財務省や事務次官の対応を批判してきたのですから、この女性記者の深刻な訴えに耳を貸さず放置した経緯や理由もきちんと検証し、その結果を報道すべきです(「上司」というけれど、どんな役職の人物なのか。記者との間で、具体的にどんなやりとりがあったのか。「上司」はさらに上司に報告・相談していなかったのか。少なくとも週刊新潮が報道した後は、自社の女性記者が被害にあったことがわかっていたはずだが、そのことをなぜ昨日まで公にしなかったのかなど、疑問はつきません)。テレビ朝日は、批判の切っ先は自分にも向いていることを知るべきです。

 最後に、テレビ朝日が、女性記者が取材活動で得た情報を第三者に渡したことは「報道機関として不適切な行為であり、当社として遺憾に思っています」と話していることです。読み方によっては、女性記者の行為を非難しているように受け取れます。どうも、テレビ朝日はこの点を報道機関、ジャーナリズムの問題ととらえているようです。しかし、私には全く的外れのように思えます。
記者は社員である前にジャーナリストです。社員としての労働契約上の義務はもちろんありますが、最も重い責務は読者(テレビ・ラジオなら視聴者)である国民の知る権利にこたえることです。ですから、発表するメディアを取材相手が明示的に指定した場合は格別、一般の場合には一定の条件の下に他のメディアに情報提供することも許される場合があるというべきです。
 事実、テレビの報道番組やワイドショーには他社の新聞記者や通信社の記者が登場し、論評の範囲を超えて、取材で得た事実についてもかなり率直に発言しています。あれは、その記者が所属している新聞社や通信社が許可しているからよしとされているのでしょう。要するに、この問題は会社がOKすればよいというレベルの問題――記者と会社の間の労働契約、就業規則上の問題――であって、ジャーナリズム上の論点というようなものではないのです。
 今回は、女性記者はセクハラ被害を報道するように社にかけあったが上司にとりあってもらえず、義憤に駆られて他社に持ち込んだケースです。最初の報道しないというテレビ朝日の判断が誤っていたのですから、女性記者の情報提供はやむを得ない行為だったと事後的に追認すればよいだけの話であって、「不適切な行為」だったとする理由など全くないのです。

 取材活動で得た情報を第三者に提供することがジャーナリズム上の論点とされるのは、外務省機密漏洩事件で毎日新聞の記者が取得した外交機密を自ら所属する毎日新聞で報道せず、社会党の代議士に渡して国会で質問させたことが問題となったからでしょう。今回のように女性記者自身がセクハラの被害を受け、その事実を報道するよう掛け合ったにもかかわらず、テレビ朝日がこれを拒んだうえ、財務省にも抗議もしなかったというケースとは全く図式が異なります。
 さらにいえば、女性記者の行為は――本人は現在もテレビ朝日の社員なので公言できるかどうかわかりませんが――外形的には一種の内部告発といってよいでしょう。取材の過程で深刻なセクハラ被害を受け、自分だけでなく、女性全体に関わる大きな問題としてとらえ、意を決してそれを記事にするよう社に働きかけたにもかかわらず、上に握りつぶされた。そのため、義憤に駆られて週刊誌の取材を受けたということです。
 そうだとすれば、他社への情報提供を「不適切な行為」と非難するのは、やむにやまれぬ内部告発者を断罪することにつながり、どう考えても恥の上塗りといわざるをえません。

 繰り返し言いますが、テレビ朝日は今回の事案を詳しく検証すべきです。
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獣医学部新設、文科省に「挙証責任」という珍説~加計学園問題

2017-06-18

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 最近、おかしなことを言う人がいます。加計学園問題で、閣議決定された獣医学部新設の4条件の「挙証責任」は文科省にあり、文科省はその責任を果たせなかったのだから、獣医学部を新設することになっても仕方がないのだ、というのです。

たとえば、元財務官僚の高橋洋一・嘉悦大学教授。「挙証責任」という言葉は使っていませんが、同趣旨に元経産官僚の岸博幸・慶応大学教授

 こんなばかげた主張に同調する人はさすがにいないだろう、と思っていましたが、今日の参院集中審議を見ていたら、日本維新の会の高木佳保里議員や山本幸三地方創生相まで同じような趣旨のことを言っていました(→該当部分のビデオ、11分あたりからご覧下さい)。しかし、もちろんこのような議論はまったく成り立ちません。

問題となっている閣議決定を見てましょう(番号は筆者)

獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討
 (1)現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化し、
 (2)ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、
 かつ、
 (3)既存の大学・学部では対応が困難な場合には、
 (4)近年の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、
全国的見地から本年度内に検討を行う。

 この閣議決定は獣医学部の新設を決定しているわけではありません。(1)から(4)の条件が満たされるかどうか、2016年3月までに調べて、もし満たされるのであれば獣医学部が新設できるようにする、といっているだけです。ほかに解釈の余地はありません。

 ところで、挙証責任というのは、例えばAさんがある事実を立証できないとき、その立証できない不利益をAさんが負うということです。ですから、この4条件が満たされることを挙証する責任が文科省にあるというのであれば、文科省は4条件を立証できなかったのですから、獣医学部の新設は認められない、という結論になるはずです。

 「挙証責任論」を読むと、まず、獣医学部新設ありきなのです。だから、4条件を満たしていないことの証明を文科省に求め、文科省が4条件を満たしていないことを証明できないときは、4条件は満たされたことになるという、まったく逆立ちした、オカルト的な議論になっているのですね。

 ひょっとしたら、4条件に関する主務官庁が文科省だということを「挙証責任」という言葉で表現しているのかもしれません。山本大臣もそのような発言をしていました(さすがに、松野文科相は否定)。私はこの問題のとりまとめ役(主務官庁)は内閣府だと思いますが、仮に主務官庁が文科省だったとしても、結論は同じです。

 話をわかりやすくするため、閣議決定の第4の条件(ひらたくいうと、獣医が足りない、あるいは足りなくなる)にしぼって考えてみましょう。

 文科省が主務官庁であれ、なんであれ、獣医が足りないか、余っているかについて自分で調査することなどできません。これを無理に押しつけるのは、厚生労働省に高速道路の利用通行状況を調べろとか、警察庁に景気動向を調べろとか言っているのと同じことです。文科省は当然、獣医師を所轄する農水省に獣医が足りない、あるいは足りなくなるというデータがあるなら出してくださいと頼みます。ところが、農水省からそんな資料は出てこない。もともと(4)を示唆するようなデータは(でっち上げでもしない限り)存在しないのですから仕方がありません。そこで、文科省は(4)が満たされないと判断しました。

 問題はここからです。ふつうは条件が満たされないのだから、「新設は認めない」「当面は見送り」などという結論になるはずですが、山本大臣の言葉の端々から推測するに、主務官庁ともあろうものがデータをそろえられなかったのだから、文句を言わずに獣医学部の新設を認めろ、という筋道で事態は進んだらしいのです(上記の「挙証責任論」と同趣旨の論理と思われます)。

 もちろん、こんなばかな話はありません。だから、当然文科省は抵抗します。ところが獣医師が足りないなどというデータなどどこにもないのだから、内閣府は論理的に文科省を説得でません。そこで、「総理のご意向」により強行突破をはかった、というのが真相だと思われます。

 前川喜平・文科事務次官はこういう事態を「行政がゆがめられた」と表現したのでしょう。

 高橋洋一、岸博幸の両氏だけでなく、維新の会の高木佳保里議員や山本幸三地方創生相までが同じ時期に同じ趣旨の発言をし始めたことを考えると、この珍説を考え出した仕掛け人がいるのかもしれません。しかし、繰り返しますが、これはばかげた理論です。

 

テーマ : 政治のニュース
ジャンル : ニュース

加計学園問題、文書確認の文科省職員は国家公務員法違反(守秘義務違反)にはならない

2017-06-17

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 加計学園問題で、文書の存在を証言した文部科学省職員について、義家文科副大臣が国家公務員法違反の可能性を示唆しました(→朝日新聞の記事)。この答弁は公益通報制度との関連で述べられたものですが、今回のケースはそれを待つまでもなく守秘義務違反にはあたりません

 何が「秘密」にあたるかについては、確立した最高裁判例があります(徴税トラの巻事件)。「秘密とは、非公知の事項であって、実質的にもそれを秘密として保護するに値すると認められるもの」とされています。つまり(1)非公知(一般に知られていない)で、かつ(2)実質秘であるという2つの条件を満たすものだけが「秘密」とされるのです。

 今回の事例では、文科省職員が文書の存在をメディアに対して確認した時点では、それらの文書は与野党の政治家や霞ヶ関の官僚、主要なメディアの間に広く流布していました。従って、第1の非公知の要件を欠いています。公知の文書の存在をコンファームしても守秘義務違反に問われることはありません(この点、前川喜平・前文科事務次官が朝日新聞の単独インタビューで「文書は本物だ」と述べたことについても同様のことが言えます)。

 なかには、「文書が存在すること自体が秘密なのだ」という人がいるかもしれませんが、これも無理ですね。なぜなら、情報公開法は行政機関が文書の存在を隠すことを認めていないからです。

 文科省を含む行政機関に対しては、だれでも(国民も外国人も)行政文書の開示を請求することができますが、行政機関は文書を公開しない場合には、必ず「不開示」(文書はあるけれど、公開しない)か「不存在」(そもそもそういう文書はない)と答えなければなりません。結局、文書があるか、ないかは情報公開請求すればわかってしまう仕組みになっているのです(民主国家においては、文書の内容を例外的に非公開にすることはできても、文書の存在自体を隠すことはできないのです。政府の説明責任の観点から言って、当然のことです)。従って、行政文書の存否は原理的に秘密になり得ません。

 もちろん例外はあります。存否応答拒否情報と呼ばれるものですが、これは極めて限られたケースでしか認められません。例えば、ある人がAさんの前科記録を警察に情報公開請求したとします。前科記録は個人情報ですから一般的には開示はされないでしょう。しかし、警察が「不開示」とか「不存在」の決定をしたら、どうなるでしょうか。「不開示」なら、何だかはわかりませんがAさんには前科がある、「不存在」ならAさんには前科がないとわかってしまいますね。こういう極限的な場合に限り、情報公開法は「あるともないともいえない」という回答を認めているのです。

 さきほど、松野文科大臣の会見を見ていたら、3つの文書については「存否を明らかにできない」としていました。しかし、存否応答拒否情報は上記のように極めて限られた場合にしか認められていません。加計学園のようなケースでそういう性格の情報が本当にあるのか、はなはだ疑問です。文書の存在を確認した文科省職員を守秘義務違反に問うために巧妙に仕掛けられた「わな」かもしれません。一線の記者の皆さんには、本当に存否応答拒否できる情報なのか、文科省を厳しく追及してほしいと思います。

 それでは、「総理のご意向」文書を最初に朝日新聞に持ち込んだ人はどうなるのでしょうか。

 ご心配なく。情報提供者がどういう人だか、わたしは知りませんが、その人が罪に問われることは絶対にありません。取材した記者が絶対に情報源を明かさないからです。これは法律論と言うよりも、事実の問題です。

 古い話(1950年)ですが、朝日新聞の石井記者は裁判で情報源を明かすよう求められたとき、宣誓自体を拒否しました。彼はそのために有罪となりましたが、ニュースソースは決して漏らしませんでした。

 これは朝日新聞に限ったことではありません。まともな新聞やテレビの記者であれば、ネタ元をしゃべるようなことは決してしません。たとえ、それを理由に処罰されるようなことがあってもです。それがジャーナリストとしての矜恃というものでしょう。

 ちなみに、情報源の秘密は、新聞社内でも極めて厳格に管理されています。私は社会部で記者をしていた1980年代末から90年代、1面トップ級のスクープ記事を10本以上書きましたが、デスクから具体的なネタ元を尋ねられたことは一度もありませんでした。ネタ元は基本的に取材した記者しか知らないのですから、漏れる恐れなど、最初からないのです(いまは記者に対する管理が強まっているそうですから、デスクがニュースソースを聞くこともあるのかもしれませんが、いずれにせよそれが厳重に管理されていることはいうまでもありません)。

官邸の防御ライン破綻、苦しい弁明続く~加計学園問題

2017-06-01

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 加計学園問題について、朝日新聞が「首相のご意向」と記された文科省の行政文書をスクープし、さらに当時文科省事務次官だった前川喜平さんが「文書は本物」「手続きがゆがめられた」と朝日新聞との単独インタビューで語ったとき、私は官邸がとりうる防御策は3つあると考えていました。それは、

第1に文書の存在自体を否定すること
第2に文書内容の信頼性に疑問を呈すること
第3に首相の概括的な指示は認めた上で、高度な政治判断を強調すること

――でした。

 この3つのポイントに沿って、官邸は有効な反論をなしえているのか、整理してみました。

 ご承知の通り、朝日新聞が文書をスクープしたとき、官邸は(1)で食い止める作戦に出ました。「そんな文書はない」といって押し切ろうとしたのです。しかし、文書の体裁や言い回し、記載内容に不自然な点はなく、マスメディアだけでなく、多くの官僚や(与党も含めた)政治家がこの初報の段階で「文書は本物であり、存在する」という強い心証を持ったと思われます。

 そこに前川さんのインタビューが追い打ちをかけました。役人のトップであった前事務次官が日付や経緯も含めあれだけ詳細な証言したのです。常識的なレベルでは、文書が存在し、内容が事実であることはこの時点で、ほぼ証明されたと言ってよいでしょう(仮に裁判で文書の存否が争われたとしても、あの前川証言があれば裁判所は確実に文書の存在を認めるはずです)。

 そこで、官邸は前川さんの「スキャンダル」を暴露し、証言の信用性を低下させるゲリラ戦に打って出ました。しかし、前川さんの人柄をよく知る人々の反論が相次いだほか、菅官房長官のあまりに露骨な人身攻撃に対する反発も強まり、失敗に終わりました。火付け役だった読売も、少し前からこの「スキャンダル」にはほとんど触れなくなっています。

 官邸も(1)のラインがすでに破られたと暗に認めているフシがあります。最近の新聞報道や国会答弁を注意して読んでみてください。「文科省がないと言っている」「共用ファイルの中になかった」などの言い逃れ的な釈明はあっても、正面から文書の存在を否定し、「朝日新聞が報道した文書は偽物、前川氏はうそをついている」というような主張はだれもしていません。

 こう考えると、(おそらく菅官房長官が指揮した)第1の作戦は最悪の選択であったことがわかります。現在、おそらく多くの国民は文書は本当はあると思っていますが、政府はその存在を否定し続けなければならない事態に陥っているからです。いまさら、「実はありました」と言えば、自ら「うそつき」であることを認めたことになり、政権にとって命取りになりかねません(文書が新たに発見されたことにして、調査を十分にしなかった文科省のせいにすることもできますが、確実に文科相の首が飛ぶでしょう)。

 ところで、前川さんの証言からしばらくたって、首相や官邸に近いとされている政治評論家、ジャーナリストのなかに、「あったとしても正式の文書ではなくメモのようなもので信用できない」「文科省の受け止め方を記したものであって、実際に内閣府がそう言ったかどうか別問題」という趣旨の発言をする方が出てきました。これは(1)の防御ラインが破れたため、(2)の文書内容の信頼性に土俵を移して争おうとする兆候なのかもしれません。

 ただ、この論も無理がありますね。確かに、役所は国民やマスコミには役所の宣伝したいことを大げさにアピールする反面、都合が悪いことはなるべく小さく扱ったり、隠そうとしたりします。しかし、それはあくまで外部に公表する、よそ行きの文書の話です。

 今回問題になっているのは、他省庁との協議内容を役人のトップである事務次官に(そしておそらくは大臣や高等教育局長にも)説明・報告する内部文書なのですよ。そんなところに、事実と反する情報を記すはずがないではありませんか。もちろん、一般論としては言った側と聞いた側に若干のニュアンスの差はあるかもしれませんが、仮にあったとしてもごくわずかでしょう。文書の内容はほぼ100%事実であると言って差し支えないと思います。

 こんなことは、与党の政治家も霞が関の役人もみんな知っています。だから、口に出しては言いませんが、そこに書かれているやりとり(「首相のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」)が本当になされたものだと、内心は思っているはずなのです。与党が前川さんの証人喚問に応じないのは、文書が存在してその内容は事実だということが明らかになるだけだ、とみているからでしょう。証人喚問を拒否する理由を問われた与党の幹部(竹下さん)が「必要ないということが、その理由だ」としか答えられなかったのも、以上のような事情を裏付けています。

 実は、官邸側としては防御ラインの(3)が一番守りやすのではないか、と私は思っていました。読売新聞の社説も(1)(2)の防御ラインの維持は難しいと判断したのか、「規制緩和は安倍政権の重要政策であり、仮に首相が緩和の加速を指示しても問題はあるまい」(2017年5月27日付)などとかなり早い時期からこの論点を取り上げていましたし、官邸に近いとされる2、3のコメンテーターが同趣旨のことを述べていました。

 しかし、今回のケースでは、私はそういう反論は通用しないと思います。長くなってきたので、要点だけ申し上げますが、高度に政治的な事柄をトップダウンで決定すること、前例踏襲主義に陥りがちな省庁の壁を突破するために戦略特区をつくることは、一般論としてはまったく問題ないと思います。
 ただ、それは首相がそうしろといったから、それでよしというようなものではありません。それでは法治国家ではなくて、中国のような人治の国になってしまいます。
 この問題に関しては、先に獣医学部新設の4条件が閣議決定されていました。閣議決定とは、重要事項についてなされる内閣の意思決定のことです。憲法上、行政権は内閣にあるので、首相といえども、閣議決定が有効である限り、この4条件には従わなければなりません。もちろん、行政機関の1つである文科省もしかりです。
 ことろが、文科省の事務次官であった前川さんは「4条件はとても満たされているといえるような状態ではなかった。何度も無理だといったが、首相の意向だといって押し切られた」(要旨)と証言し、そのやりとりを記した朝日新聞報道の文書を文科省が作成した本物だと認めているのです。

 会社を例にして言えば、こういうことです。代表取締役(社長さん)は会社で一番偉い人ですが、会社法では重要な事柄(例えば、新しく支店をつくるとか、大きな借り入れをするとか)については取締役会で決めなければいけないことになっています。ところが、社長さんが取締役会の決議を無視して、あるいは自分の腹心である取締役とだけ相談して勝手に物事を進め、トラブルになることがありますね。社長さんが首相、取締役が内閣と考えれば、何が問題なのかわかりやすいでしょう。
 
 もし、官邸にやましいことがないのであれば、最初の段階で文書の存在を認めて、「トップダウンで決めて何が悪いのですか」「戦略特区というのはそういうものなのですよ」とオープンに言えばよかったのですが、そうはしなかった。安倍首相の国会答弁を聞いていると、国家戦略会議で自然に出てきて固まった事柄を自分が追認しただけ、といわんばかりです。この文脈では首相が好きなリーダーシップのリの字も出てきません。

 そのかたくな姿勢は私の目にはかなり異様に映りますが、この点を譲ってしまうと、官邸が強引なやり方をしたと認めることにつながると判断しているのかもしれませんね。あるいは、加計学園の理事長が安倍首相のとても親しいお友達であることは公知の事実ですから、安倍首相が閣議決定の4条件を無視して特別の便宜をはかったと批判されるのをおそれているのでしょうか。いずれにせよ、安倍首相も官邸も今のところ、この(3)の防御ラインは戦わずして放棄しているように見えます。

 以上、考えられる3つの防御策は、事実上いずれも破綻していると思います。官邸は強気の姿勢を崩していませんが、本丸は丸裸です。

 それでは、事態は動くのでしょうか。わかりませんが、与党が絶対多数を握っているので、理詰めの議論が数の力で押さえ込まれているのが現状ですね。ただ、内閣支持率が急落するとか、自民党が都議選で大敗するなどすれば、政府や与党の態度も変わってくるかもしれません。
 安倍政権を成立させたのは、国民です。最終的には、世論の動向がカギを握っています。

加計学園、「レク資料」が「行政文書」でないという詭弁

2017-05-26

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 前川喜平前文科省事務次官(以下、友人でもあるので前川さんと呼びます)が「本物だ」と語った文書について、文科省は「共有フォルダー(の調査)や職員7人へのヒアリングの結果、行政文書として存在を確認できなかった」としています(→朝日新聞記事)。

 ポイントは「行政文書」という言葉です。この言葉は最近、かなり安易に使われており、先ほどTBSテレビを見ていたら、コメンテーターの田崎史郎氏(時事通信社特別解説委員)が「文書は本当はあると思うが、行政文書としては存在しないということ」という趣旨の発言をしていました。法律をよく知らないと、つい「なるほど」と納得してしまいそうですが、もちろんこれは誤りです。

 「行政文書」という言葉は情報公開法で規定されており、「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」(2条2項)とされています。これは簡略に「組織共用文書」と呼ばれています。ちょっと難しいので、以下この段落は読み飛ばしてくださっても結構ですが、情報公開法の公定解釈本である「詳解情報公開法」(総務省行政管理局編)は「政府の説明責任が全うされるようにするという本法の目的に照らして必要十分なものとするため(中略)、決済、供覧などの手続きを要件とせず、業務上の必要性に基づき保有している文書であるかどうかの実質的な要件で規定するとともに、媒体の種類を幅広くとらえて電磁的記録が含まれることとした」と述べた上で、「行政機関の職員が当該職員に割り当てられた仕事を遂行する立場で、すなわち公的立場において作成し、又は取得したことをいい、作成したこと及び取得したことについて、文書管理のための帳簿に記載すること、受領印があること等の手続き的な要件を満たすことを要するものではない」と説明しています。また、「組織共用」の基準のひとつとして、「業務上必要として他の職員又は部外者に配布されたものであるかどうか、他の職員がその職務上利用しているものであるかどうか」をあげています。

 簡単に言えば、こういうことです。行政文書を決裁されたり、稟議にまわされたりした文書だけに限定してしまうと、あとからどうしてそのような政策が決定されたのかを調べるとこができなくなり、政府の説明責任(アカウンタビリティ)が果たされないので問題です。しかし、だからといって、職員が取得・作成した全文書を行政文書とすると、職員が自己研鑽のため個人的に集めた研究資料や純粋に個人的なメモ・備忘録なども含まれてしまって不都合が生じる場合があります。そこで、業務の必要上、組織として共用されている文書(組織共用文書)を「行政文書」と定義したというわけです。ここで大切なことは、ナンバリングなどをして正式の文書ファイル簿の中に登録されていなくても、組織共用の実質をそなえていれば行政文書とされる点です。

 さて、今回の文書について、前川さんの証言を元に判断すると、(1)文科省の担当職員がおそらく内閣府に出向いて内閣府の担当者と話をし、その内容をメモした(2)そのメモに基づき、事務次官に(おそらく、大臣や高等教育局長にも)説明するために、レク資料をパソコンで作成し、印字した(3)その資料を事務次官室に持参し、事務次官に(おそらく大臣や高等教育局長にも)内容を説明した(4)事務次官はその説明に基づいて、方針を指示または了承した、という流れになります。私見では、(1)の段階のメモも、残っていれば組織共用文書にあたります。個人的に趣味として筆記したものではなく、他省庁とのやりとりを省に帰った後に同僚や上司に説明するために作成されたものだからです。(2)のプリントアウトされたレク資料も事務次官など文科省の首脳部に配布するために作成されたのですから、同様です。ただ、行政実務では(おそらくなるべく情報公開の対象を狭くしたいとの下心から)組織共用の実質を狭く解釈する傾向があります。そういう人々は(1)(2)の段階では組織共用とはいえないというかもしれません。しかし、今回のケースでは(3)(4)が明らかなので、どんなに言い抜けようとしても無駄です。文書は実際に事務次官に配布され、それに基づいて政策判断がなされているからです。どんな行政実務家であっても、これが組織共用文書にあたらないという人はいないでしょう。
 ですから、今回の場合、「(本当はあるんだけど、それはあくまで個人のメモであって)行政文書としてはない」という言い逃れは絶対にできないのです。松野大臣はよくわかっていないので、国会答弁は支離滅裂ですが、事務方の文科省・義本博司総括審議官の発言(「共有フォルダー(の調査)や職員7人へのヒアリングの結果、行政文書として存在を確認できなかった」)は、あとで文書の存在を否定できなくなったとき、「行政文書として共有フォルダーに入ったいなかったが、よく探したら個人のメモ(あるいは個人的な資料)として保管されていることがわかった」と弁明できるように組み立てられています。多分、上から言われて無理は承知の上でこう強弁しているのでしょう。だだ、繰り返しますが、「組織共用文書」(すなわち行政文書)であるかどうかはその実質(実際に組織で共用されているかどうか)で判断されるのであって、共有フォルダーに入っていない行政文書は多数存在するのです(このような実態は、文書管理上は非常に問題であり内閣府が定めた行政文書の管理に関するガイドライン に違反している疑いがありますが、菅官房長官の発言を聞いていると、内閣府自体がこのガイドラインをないがしろにしていることは明白であり、他省庁がこれを守らないのも無理はないと思います)。

 この点、前川さんは会見で繰り返し「文書は担当課が作成し、次官である私に配布され、共有(共用?)されていた」という趣旨のことを述べていましたが、これは「このレク資料は組織共用文書だよ、だから行政文書に該当するよ」ということをわかりやすく説明したものと推測されます。また、「さがせばすぐ出てくるはずです」という発言も、後輩たちに「行政文書としては存在しないなどという言い逃れは通用しないのだから、はやく存在を認めた方がいいよ」とやんわり忠告しているように聞こえました。
 
 ちなみに、前川さんは情報公開法制定の際、文部省内のとりまとめのような役割を担っていました。従って、「組織共用文書」や「行政文書」がどういうものなのか、熟知した上で発言していると思われます。

プロフィール

hiroshi

Author:hiroshi
久保谷洋(くぼたに・ひろし)
ジャーナリスト、翻訳家。
元朝日新聞東京社会部記者、元朝日学生新聞社出版担当。タイトルはブログを始めたときの肩書きが「出版担当の役員」だったときにつけたものです。ある程度定着しているので出版担当をやめた後も、そのままにしています。2016年4月から1年間、外務省研修所非常勤講師(オランダ語担当)をつとめました。

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